こんにちは。YoFuです。
皆さんは、建築は好きですか??
私は建築が大好きです。
建築は文化そのものです。建築は私達を当時へとタイムスリップさせてくれます。
建築にふれるだけで、私達は時の流れを超えることができるのです。
そんな建築ですが、時の流れの中で朽ちていくのが常で、現在まで残っているのはとてもわずかです。
わずかしか残っていない、そんな貴重な建築にも関わらず、人が自らの手で破壊したものは数知れず。
過去の文化を保存するために守っていかなければならない建築なのにも関わらず、人は自分自身で無慈悲に破壊しました。
というわけで、人が自らの手で破壊した建物を紹介します。在りし日の姿が写真に残っていれば、それも一緒に紹介します。
今回は『第一次世界大戦と第二次世界大戦で破壊された建築 ヨーロッパ編』をお送りします。
数が多すぎて紹介しきれないので、有名な建築をピックアップして紹介します。
アルバニア
スレイマンパシャモスク
・在りし日の姿
第二次世界大戦中にドームとモスクが破壊されましたが、ミナレットは無事でした。
生き延びたミナレットでしたが、1967年に共産主義政権が戦争記念館を建設するために取り壊しました。
イギリス
コヴェントリー大聖堂、聖ミカエル教会
・1802年8月10日に描かれた、在りし日の姿
・現在の姿、右側が新設された部分で、左側が残された破壊された部分
・現在の姿、破壊された部分が残されています。
聖ミカエル教会は14世紀後半から15世紀初頭に建設されました。
1940年11月14日のドイツによる爆撃で大部分が廃墟にされました。
戦後、破壊された部分は残しつつ、それに調和するように新しい聖ミカエル教会が建てられました。
プリマス、チャールズ教会
1708年に完成しました。
1941年3月21日、ドイツによって破壊されました。
戦後、チャールズ教会は再建せず、空襲で殺されたプリマス市民への記念碑に変えることが決定されました。
イタリア
イタリアの多くの歴史的建造物は、第二次世界大戦中に破壊または損傷を受けました。
モンテ・カッシーノ修道院
・1898に描かれた姿
・爆撃を受けた後の無残な姿
・再建された現在の姿
1944年2月15日、連合軍の爆撃でほぼ完全に破壊されました。
不幸中の幸い、修道院の中に収められていた貴重な書物や芸術はバチカンに避難されていたので無事でした。
戦後、再建が始まり、1964年に完成しました。
サンセバスティアーノ教会
・破壊された後の姿
1945年1月4日、連合軍の爆撃によってほぼ完全に破壊されました。
1950年頃にファサードはサンニコロオールアリーナ教会に移転され、教会の残骸は取り壊されました。そして、新しい建物が建てられました。
戦争を生き延びた鐘塔は保存されています。
ウクライナ
ゴールデンローズシナゴーグ
・在りし日の姿
ウクライナで最も古いシナゴーグでした。
第二次世界大戦中、ドイツによって台無しにされました。
ユダヤ人たちはかつてのようなで姿の再建を望んでいますが、再建計画はまったく持ち上がっていません。
グレートサバーブシナゴーグ
・在りし日の姿
1624年から1630年に建てられ、長い間親しまれてきました。
第二次世界大戦中、ドイツによって台無しにされました。
戦後に再建はされず、跡地には広場が設けられました。
エストニア
首都タリン
・爆撃を受けるタリン
第二次世界大戦中を通して、エストニアの首都タリンはドイツ軍とソビエト軍に何度も爆撃をされました。
最大規模の爆撃は、1944年3月のソビエト軍の爆撃です。ソビエトは街の水設備を無効にした後、1000を超える数の焼夷弾を投下し、街全域を火の海に包んで焼き尽くしました。街の98%が破壊されました。
オーストリア
ウィーンの聖スティーブン大聖堂
・1847年、ジェイコブ・アルトの水彩画に描かれた姿
・修復された大聖堂
1945年4月12日、大聖堂に火がつき、屋根が燃え上がりました。
幸いなことに、教会内の芸術作品へのダメージは最小限に抑まりました。1487年にロリンジャーが彫刻した聖歌隊の座席、南塔の鐘が焼失しただけでした。
復興は戦後すぐに始まり、1952年4月23日に完全に復興しました。
オランダ
ロッテルダム
・爆撃を受けた後、瓦礫を撤去して何もなくなった状態の都市。セントローレンス教会だけが、廃墟になりながらも唯一姿を保っています。
1940年5月14日、ロッテルダムにドイツが爆撃を行いました。ドイツの爆撃は数時間にも及び、ロッテルダムのすべてを破壊しつくしました。
オランダの歴史ある都市だったロッテルダムは、わずか数時間の爆撃の間に積み重ねてきた数百年分の建築と芸術が破壊されました。
セルビア
ベシェノボ修道院
・在りし日の姿
セルビア国立図書館
・在りし日の姿
1941年4月6日にヒトラーの命令で爆撃されました。
図書館の建物と所蔵していたすべてのコレクションが破壊されました。ヨーロッパ史上最大の焚書の1つです。
約500,000冊に及ぶ本とかけがいのないコレクションがドイツによって燃やされました。
旧宮殿
・1926年、第二次世界大戦が始まる前の姿
・1941年、ドイツによって爆撃を受けた後の姿
宮殿は両方の世界大戦で被害を受けました。
第一次世界大戦で被害を受けた後、1930年頃に修復されました。
第二次世界大戦中、1941年4月6日にドイツに爆撃されて部分的に破壊されました。破壊されて間もなく修復が始まりましたが、都市が解放される1944年10月まで完了しませんでした。
第二次世界大戦後の修復は1947年まで続きました。修復後の建物は大幅に変更されています。
チェコ共和国
プラハ旧市庁舎
・現在の姿
1945年のプラハ蜂起時の火災で被害を受けました。
1313年に建てられた、ボヘミアで最も古い市庁舎も被害を受けました。鐘が溶け、70,000冊もの市のアーカイブと貴重な写本が灰に変わりました。
ドイツ
第二次世界大戦中、無数の歴史的な建物が深刻な被害を受けました。被害は第二次世界大戦中だけでなく、終わってからも続きました。
ベルリン王宮
・在りし日のベルリン王宮
・被害を受けた後のベルリン王宮、ドームが崩れ去っています
・再建された後
高さ60メートルもある、ベルリン最大の建物の1つです。
第二次世界大戦で連合国の爆撃を受けて損傷しました。
戦後しばらく放置されていましたが、1950年に東ドイツ当局によって取り壊されました。代わって、東ドイツ共和国の宮殿が建てられました。
ドイツ再統一後、東ドイツ共和国の宮殿は破壊され、ベルリン宮殿が再建されました。
モンビジュー宮
・1739年に描かれた、在りし日のモンビジュー宮
ベルリン中心部にあったロココ様式の宮殿です。
第二次世界大戦で甚大な被害を受けました。
戦後しばらく放置されていましたが、1959年に東ベルリン当局によって解体されました。再建されていません。
ポツダム市宮殿
・破壊される前の姿
・再建された後の姿
第二次世界大戦、連合国の爆撃を受けて全焼し、廃墟になっていました。
戦後しばらく放置されていましたが、1960年に東ドイツ当局が解体しました。
ドイツ再統一後、再建計画が始まり、2013年にようやく再建されました。
ドレスデン聖母教会
・1897の在りし日の姿
・爆撃を受けた後の姿、瓦礫の山となっています
・再建された姿
1945年2月13日、連合軍が爆撃を開始しました。教会は2日間攻撃に耐えていましたが、2月15日の午前10時にドームが崩壊。柱は爆発、外壁が粉々に砕け6,000トン近くの瓦礫が地面に落下して床を貫きました。
瓦礫は45年間もの間山積みになっていましたが、ドイツ再統一後に再建されました。外観の再建は2004年に、内部は2005年に完成しました。
ベルリン大聖堂
・1900の破壊される前の姿
・爆撃を受けた後の姿、ドームが崩れ去っています
・再建された後の姿
1940年、連合軍の爆撃による爆風が窓の一部を吹き飛ばしました。
1944年5月24日、連合軍の爆撃がドームを破壊し、建物を全焼させました。
1975年に再建が始まり、1993年に再開されました。
カイザーヴィルヘルム記念教会
・1900の在りし日の姿
・爆撃を受けた後の姿
・現在の姿、爆撃を受けた後の姿が一部残されています
1943年の爆撃で大きな被害を受けました。
一部が解体されて新しい教会が建てられ、損傷した尖塔は損傷した当時のまま保存されています。
ハンガリー
セーチェーニ鎖橋
・破壊された後の姿、橋を支える柱だけが残っています
・現在の再建された後の姿
第二次世界大戦中、ブダペストから撤退したドイツ人によって1945年1月18日に爆破され、柱だけが残りました。
再建され、1949年に再開されました。
シャンドール宮殿
・現在の姿
第二次世界大戦まで首相の住居として使われていました。
連合軍による爆撃により、建物は廃墟となりました。宮殿内のものはすべて戦利品と見なされ、奪われました。運良く、廃墟はブルドーザーの犠牲にならずに生き延びました。
1989年、再建が始まりました。
再建に何年にもわたりましたが、少しずつ元の栄光を取り戻していきました。ほとんどの家具やオブジェは、破壊されたオリジナルのレプリカです。
フランス
ランス大聖堂
・再建後の正面
・再建後の側面
・破壊された後の正面
・破壊された後の側面
第一次世界大戦中の1914年、爆撃が行われて焼失しました。
爆撃の炎は屋根支える木造の骨組みを襲い、燃やし尽くし、屋根を完全に破壊しました。屋根以外にも、鐘は溶けて窓は吹き飛ばされ、彫刻や壁の一部が損傷しました。
大聖堂は終戦後に再建されました。
ベルギー
第一次世界大戦、第二次世界大戦の両方の大戦で多大な被害を受けました。
ルーベン大学図書館
・現在の姿
第一次世界大戦中の1914年8月25日、ドイツ人によって破壊されました。
図書館に所蔵されていた貴重な書物、ゴシックやルネッサンス、中世の写本、1,000以上のインキュナブラなどの23万冊にもおよぶ膨大な数の人類の遺産が燃やされました。
戦後に再建され、世界中から書物を集めて再開されました。
第二次世界大戦中、再建された図書館は再び火の中に消え、せっかく集めた数万冊もの所蔵が失われました。
戦後に再び再建されました。
ポーランド
ポーランドは国土全域に渡って、ドイツから空爆を受けました。被害は数知れません。
ワルシャワ旧市街のマーケットプレイス
・破壊された後の姿
・再建された現在の姿
ワルシャワ王宮
・廃墟となったワルシャワ王宮
・再建された現在の姿
ワルシャワ歴史地区を含め、王宮、ワジェンキ宮殿など、ドイツはワルシャワの建物を破壊しつくしました。
ワルシャワの破壊は第二次世界大戦が始まる前に計画されていました。ワルシャワはドイツの地方都市の一つとして再建される計画でした。
ドイツ人は建物を破壊するために専門部隊を派遣しました。解体部隊は火炎放射器と爆発物を使用して、家を黙々と破壊しました。
1945年1月までにワルシャワのすべての建物うちの9割近くが破壊されました。
正確な損失額は不明ですが、莫大なものと見なされています。
2005年の見積もりでは、総被害額は546億米ドルだとされています。
マルタ
ロイヤルオペラハウス
・1911年に描かれた、在りし日の姿
・破壊された後の姿、写真右側の建物
・再建途中の姿
1942年4月7日、ドイツの爆撃によって廃墟になりました。
オペラハウスに残っていたのはテラスと柱の一部だけでした。
戦後、瓦礫は撤去されましたが、建物自体は廃墟のまま残っていました。
いくつもの再建計画が持ち上がってはたち消え、最終的に2013年に劇場として生まれ変わりました。
ビルグの時計塔
・在りし日の姿
・現在の姿、跡地
第二次世界大戦中、イタリアとドイツの爆撃によって破壊されました。
4月11日から12日の爆撃で、建物の一部が崩壊しました。2週間後、残った部分に再び爆撃を受けて被害がさらに拡大しました。
修復されずに廃墟となっていた時計塔は1944年10月に完全に取り壊されました。
戦後、再建計画が何度か持ち上がりましたが、いまだ再建されていません。
時計のメカニズムのほとんどはまだ残っているので、再建しようと思えばできます。
あとがき
いかがだったでしょうか。
戦争は人類の宝を無慈悲に破壊していきます。
ここで紹介したのはあくまでも一部だけです。ここで紹介しきれなかった膨大な数の歴史的な建築が焼き払われています。加えて、それらの中には文献や絵などの貴重な文化財が収蔵されていたので、一緒に焼き払われています。
戦争も人の歴史の一部なので、戦争による焼失も時の流れに消えていったと言えるでしょう。しかし、戦争なんか起こさずに、できるだけ多くの建築を残していきたいものですね。
おそらく、将来の子どもたちは「貴重な建築を破壊しやがって!ふざけんなよ!」と怒るでしょう。今の私達が怒っているように。
今回の記事はコチラの記事を参考にしました。