こんにちは。YoFuです。
今回は『人間が自らの手で破壊した図書館 破壊された年代順の解説』をお送りします。
人間の知識の結晶である図書館。古代からの人々の営みが記録されています。
温故知新ということわざのとおり、古代の人々の知識は現代に生きる人々にとって指針の一つです。
そんな保存すべき図書館ですが、残念なことに、いくつもの図書館が人自らの手で破壊されてきました。なので、今回は人自らが破壊した図書館を紹介していきます。
破壊された年代順に並べていきます。
- まえがき
- そもそも、なぜ図書館はよく燃えるのか??
- アレクサンドリア図書館
- アンティオキア図書館
- セラペウムの図書館
- ナーランダ僧院
- コンスタンティノープル帝国図書館
- マドラサ
- マヤコーデックス
- 議会図書館
- 翰林院図書館
- ルーベンカトリック大学の図書館
- セルビア国立図書館
- SS.キリルとメトディウス国立図書館
- ザウスキ図書館
- レバノン国立図書館
- カンボジア国立図書館
- ジャフナ公立図書館
- ブカレスト中央大学図書館
- サラエボ大学オリエンタルインスティテュート
- ボスニア・ヘルツェゴビナ国立大学図書館
- イラク国立図書館、バグダッド大学中央図書館、モスル大学の中央図書館、その他いくつもの図書館
- エジプト科学研究所
- アハメドババ研究所(ティンブクトゥ図書館)
- ボスニア・ヘルツェゴビナ国立公文書館(一部)
- あとがき
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まえがき
図書館が誕生してから現在に至るまで、数え切れないほど多くの図書館が造られ、そして破壊されてきました。
自然災害や偶発的な火災など、偶然の場合もありましたが、多くは人類が自らの意志で自らの手で故意に破壊しました。
他民族を否定するための文化的浄化の一環として破壊したり、戦争の中で破壊したり。
歴史の中に消えていった図書館の中で、有名なものをいくつか紹介します。
そもそも、なぜ図書館はよく燃えるのか??
図書館の大敵は火ですが、もう一つ大きな敵がいます。それは、カビです。
カビがひとたび発生すると、瞬く間に蔵書の間に広がってしまいます。そうすると、蔵書がダメになってしまうので、図書館を建てる際はカビ対策に力が入れられました。
カビは湿気の多いところに発生するので、開口部を増やしたり、空気の流れを良くする空間構成にしたりなどの工夫が施されました。
カビ対策には有効でしたが、逆にこれが仇となりました。空気の通りがいいだけに、一旦火事が起こると、炎は空気の流れに乗って一気に図書館全体へ広がったからです。
よって、ボヤ程度の小さな火事でも図書館全体が簡単に燃え上がりました。どんなに些細な火でも、図書館にとっては大敵でした。
このような理由で、図書館はよく燃えるのです。
現代では、防火技術の進歩により図書館が火事にみまわれる可能性はかなり減りました。新築の際は、スプリンクラー、防火扉、火災警報器などの火に対する防御が図書館全体に万全に施されます。
古い図書館では、火事対策の改修工事が施されます。近代的な防火設備を新たに設置し、風通しを良くするために設けられた開口部を塞ぎます。
肝心のカビの問題は、エアコンで解決します。
アレクサンドリア図書館
・19世紀に描かれたアレクサンドリア図書館
場所:古代エジプト、アレクサンドリア
破壊された時期:不明
破壊者:不明
古代世界で最大かつ最も重要な図書館です。世界で最も有名な図書館ではないでしょうか。にも関わらず、記録があまり残っていません。破壊された時期さえも分かっていません。
アレクサンドリアを治める歴代の王たちによって、各地から膨大な数のパピルス文書が蒐集されました。正確な数は分かりませんが、その数は何十万冊にも及んだと言われています。それにより、図書館が膨大な数の蔵書を誇ることとなりました。
膨大な蔵書を誇る図書館のおかげで、アレクサンドリアは古代世界における知識の中心の役割を果たしていました。
隆盛を誇ったアレクサンドリア図書館ですが、盛者必衰の理の通り、衰退します。一気に衰退するのではなく、数世紀にわたってジワジワ衰退しました。
衰退は、紀元前145年にアレクサンドリアから知識人が追放されたことから始まりました。
その後の紀元前48年、ローマの内戦に巻き込まれて図書館と蔵書の一部が焼えました。
それに続くローマ帝国の統治時代、資金と帝国による支援不足により図書館はさらに衰退しました。
西暦260年頃までに、図書館に雇われていた学者の全員が解雇されました。
ボロボロの内情の図書館でしたが、さらに追い討ちがかかります。西暦270年から275年の間にアレクサンドリアで起きた反乱に巻き込まれました。
破壊された正確な時期は分かっていませんが、少なくともこの反乱が終了するころまでには図書館は破壊されていたと考えられています。
アンティオキア図書館
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場所:古代シリア、アンティオキア
破壊された時期:西暦363年と364年のどちらか
破壊者:ローマ皇帝ヨウィアヌス
セレウコス朝のアンティオコス三世によって建てられました。 この図書館のおかげで、アンティオキアは古代世界の文化的首都の一つでした。
セレウコス朝はシリアを支配していた国家でしたが、ローマとの戦いに破れ支配されました。
図書館は西暦363年にローマ皇帝ヨウィアヌスによって破壊されました。
ヨウィアヌスはキリスト教徒であり、ヨウィアヌスにとってアンティオキアは異教徒の街でした。ヨウィアヌスは異教徒であるアンティオキア人の支持を得る方法を探していました。
そんなときに、ヨウィアヌスは妻から図書館に火を放つように勧めを受けました。ヨウィアヌスは素直に従い、図書館に火を放ってすべての蔵書を灰と煙に変えました。
完全に逆効果でした。アンティオキアの市民は怒りに震えながら、蔵書が灰と煙になって空に昇っていくことを見ていました。
この蛮行により、ヨウィアヌスはアンティオキア人の非難を浴びただけでなく、同じキリスト教徒にも野蛮だと非難されました。
セラペウムの図書館
・セラペウム図書館の遺構
場所:古代エジプト、アレクサンドリア
破壊された時期:西暦392年
破壊者:アレクサンドリアの教皇テオフィラス
テオドシウス1世からの命令で図書館は焼かれ略奪されました。
セラピウムの図書館は、ギリシアとエジプトの習合神セラピス(サラピス)の神殿『セラピウム』の敷地内に、アレクサンドリア図書館の姉妹館として建てられました。
陸と海を見渡せる高原に建てられた、アレクサンドリアのギリシャ地区にあるすべての神殿の中で最も壮大な建築でした。
セラペウムは、キリスト教のローマ帝国にとって異教でした。
やがて、ローマ帝国による異教徒の迫害が激しくなると、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の命令により、セラピウムは西暦325年7月に閉鎖されました。
閉鎖された後も、セラピウムはローマ帝国に迫害された異教徒たちの拠点となっていました。そのため、西暦391年にローマ皇帝テオドシウス1世が、セラピウムの破壊を命令しました。
セラピウムは、命令を受けたアレクサンドリアの教皇テオフィラスに率いられたキリスト教の暴徒とローマ兵士によって破壊されました。
この無慈悲な破壊の中で、セラピウムに併設されていた図書館も破壊されました。
ナーランダ僧院
・ナーランダ僧院の遺跡
場所:インド、ナーランダ
破壊された時期:1193
破壊者:イスラム王朝の将軍ムハンマド・バフティヤール・ハルジー
5世紀頃、ナーランダに仏教の学院が創設されました。9階建ての校舎、6つの寺院、7つの僧院、500万冊に及ぶ蔵書を誇る図書館を持つ巨大な僧院で、1万人以上の学生、1000人以上の教師がいたと言われています。
膨大な規模を持つナーランダ僧院は、古代世界最大の教育施設であり、古代世界最大の仏教知識を誇っていました。
ナーランダ僧院は、その膨大な仏教知識から、自然と世界中から仏教を志す人を集めました。ピーク時には、チベットや中国、韓国、中央アジアなどの遠く国外からたくさんの学者や学生が勉強のために訪れました。
ナーランダは、グプタ朝のもとで誕生し、続くパーラ朝のもとで栄えました。パーラ朝はナーランダ僧院へ惜しみない援助を行いました。パーラ朝の手厚い庇護のもとで、ナーランダ僧院は絶頂に達しました。
そんなパーラ朝は、1174年に滅ぼされます。僧院にも悲劇が訪れます。
その後にナーランダを支配したのはイスラム王朝でした。イスラムにとって異教である仏教の僧院は、1193年に完全に破壊されました。
僧院の破壊により、インドでの仏教の衰退も始まりました。今日では仏教はインドにほとんど残っていません。
ちなみに、現在残っているナーランダ僧院に関する知識の多くは、7世紀のアジアの巡礼僧、玄奘や易経などの著作からもたらされたものです。
コンスタンティノープル帝国図書館
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場所:ビザンツ帝国、コンスタンティノープル
破壊された時期:1204
破壊者:十字軍
コンスタンティノープル帝国図書館は、ローマ皇帝コンスタンティウス2世によって、古代ギリシャ人とローマ人の知識を保存するために337年から361年の間のどこかで建てられました。
アレクサンドリア図書館やアンティオキア図書館など、古代の知識を称える他の古代図書館が破壊されてから1000年もの間ずっと、古代ギリシャ人とローマ人の知識を保存してきました。
この図書館では、古代の知識を保存する作業が行われていました。
古代ギリシャでは、文学はパピルスに描かれていました。パピルスは劣化が早いので、せっかくの古代の知識も消えてしまうことになります。
古代の知識を後世に残すために、パピルスよりも劣化に強い羊皮紙に書き写し、保存するという活動が行われていました。
この素晴らしい保存活動によって、10万冊をはるかに超えるほど膨大な数の古代のテキストが後世に繋がることになったと言われています。
今日まで残っているギリシャの古典の大部分は、コンスタンチノープル帝国図書館の保存活動のおかげです。この活動がなければ、ギリシア文学はほとんど残っていなかったでしょう。
そんな素晴らしい図書館でしたが、1204年に行われた第4回十字軍の標的になってしまいました。
図書館は破壊され、蔵書は焼やされるか、売却されました。
マドラサ
・現在の姿
場所:スペイン、グラナダ
破壊された時期:1499年
破壊者:シスネロス枢機卿
マドラサとは、イスラムの大学のことです。
グラナダのマドラサは、当時グラナダを支配していたイスラム王朝のナスル朝のユスフ1世によって1349年に設立されました。他の都市のマドラサと同様に、街のメインモスクの隣に建てられました。
ナスル朝は、1492年にキリスト教勢力によって滅ぼされます。
マドラサは、ナスル朝が滅ぼされた後もしばらく活動を続けました。
しかし、1499年にシスネロスが、イスラム教徒をキリスト教に改宗させるために、軍を率いてマドラサを襲撃しました。図書館の蔵書は略奪され、ビブランブラ広場に運ばれて燃やされました。
1500年にマドラサは閉鎖されました。そして、マドラサは新しい市庁舎に転用されました。
その後もしばらく建物は残っていましたが、1722年から1729年の間に取り壊され、バロック様式の建物に建て替えられました。
マヤコーデックス
・ドレスデンのマヤコーデックス
場所:ユカタン半島、マヤ地域
破壊された時期:1562年7月12日から1697年
破壊者:ディエゴ・デ・ランダ
コーデックスとは、マヤの人々が記した文書のことです。
現在知られている、古代マヤの思想や文化に関する知識は、全体像の内のほんの僅かなごく一部にすぎません。
古代マヤの人々は独自の言語を持っており、彼らはそれを使って文化や儀式、思想などの生活の隅々まで記録していました。数千冊にも及ぶ記録があったと言われていますが、現代に生き残ったのはたったの4冊だけです。
16世紀、スペイン人がユカタン半島を武力で征服しました。
1562年7月にキリスト教の司祭ディエゴ・デ・ランダが、マヤの人々をキリスト教に改宗させるために、異教の本であるマヤの人々の記録文書の破壊を命じました。
その後長い時間をかけて、マヤの文書がカトリックの司祭によって残らず燃やし尽くされました。
1697年にグアテマラで最後の文書が破壊されました。これにより、マヤの歴史と生活へアクセスする機会が大幅に減少しました。
文書を燃やし尽くされたことで、マヤの人々は驚くほど多くの苦痛を受け、嘆き悲しんだそうです。
ちなみに、石に描かれた記録は生き残りました。
現存しているのコーデックスは、ドレスデンコーデックス、マドリードコーデックス、パリコーデックス、メキシココーデックスのたった4つです。
議会図書館
・燃え盛る図書館
場所:アメリカ、ワシントンDC
破壊された時期:1814年
破壊者:イギリス軍
米英戦争中にイギリス軍が破壊しました。
破壊後すぐに再建されましたが、1851年12月24日の火災により蔵書の大部分の本が再び失われました。
翰林院図書館
・乾隆帝によって改修された後の姿
場所:中国、翰林院
破壊された時期:1900年6月23日
破壊者:不明。中国の義勇軍もしくは国際連合軍によって。
翰林院は、738年に設けられた翰林学士院を起源に持つ由緒ある施設です。書物の編纂、詔勅の起草など、国の運営に関わる重要な任務を担っていました。
そんな由緒ある施設ですが、1900年の義和団事件の際、八カ国連合軍との戦闘に巻き込まれて深刻な被害を受けました。
いくつもの焼夷弾が落とされて燃え盛る炎に包まれた有様は、地獄のようでした。
所蔵されていた数多くの古代の文献は、炎によって灰塵になりました。
建物が炎に包まれたのは、意図的か偶然かは分かっていません。どちらにせよ、図書館はほぼ完全に破壊されました。
運良く炎を生き延びた貴重な書物は、義和団事件に勝利した外国勢力に略奪されました。
翰林院は、破壊された後も1911年の辛亥革命の際に閉鎖されるまで継続的に運営されていました。
ルーベンカトリック大学の図書館
・第一次世界大戦の破壊直後、1915年2月に撮られた写真
・第二次世界大戦後に再建された、現在の図書館
場所:ベルギー、ルーヴェン
破壊された時期:1914年8月25日(一度目)1940年5月(二度目)
破壊者:ドイツ占領軍
二度に渡る世界大戦の両方で被害を受けた、悲運の図書館です。
図書館は、1317年にさかのぼることのできる歴史あるカトリック大学の一部として1834年に建てられました。
第一次世界大戦中、1914年8月にドイツ軍の攻撃によって建物は粉々に破壊され、23万冊におよぶ蔵書が失われました。
第一次大戦終了後、1921年から1928年にかけて新しい図書館が建築されました。
ドイツに対する勝利の記念碑として、大きな建物とされました。ドイツ軍に破壊された膨大な数の図書館の蔵書は、ドイツから受けた野蛮な行為に憤慨した世界中からの寄付で復興されました。
廃墟を乗り越えて再スタートをきった図書館ですが、第二次世界大戦中の1940年、ドイツによる史上2度目のルーヴェン侵攻により破壊されました。建物の大部分が焼失し、90万冊におよぶ蔵書も燃やされました。
図書館は戦後、再び再建されました。失われた蔵書は、1968年までに約400万冊にまで回復しました。
セルビア国立図書館
・1940年に描かれた図書館
・再建された現在の図書館
場所:ユーゴスラビア、ベオグラード
破壊された時期:1941年4月6日
破壊者:ドイツ空軍
二度に渡る世界大戦の両方で被害を受けました。
第一次世界大戦時は、爆撃を受けて図書館の建物と蔵書が損傷を受けましたが、不幸中の幸いで、被害は一部だけで廃墟となるほどの被害ではありませんでした。
無事だった蔵書は、保護のためにベオグラードから移送されました。
戦後、図書館は修復されました。1919年に中央州立図書館になり、ユーゴスラビア中から蔵書を集めました。
運良く第一次世界大戦を生き延びた図書館でしたが、第二次世界大戦中に運がつきます。
ヒトラー直々の命令を受けたドイツ軍により、徹底的に破壊されました。建物は粉々に破壊され、50万冊にも及ぶ蔵書も破壊されました。ヨーロッパ史上最大の焚書の1つです。
1944年にベオグラードが解放された後、図書館の再建と破壊された蔵書集める作業が始まりました。
作業は数年におよび、1947年に再開されました。
SS.キリルとメトディウス国立図書館
・1910年の図書館
・現在の図書館
場所:ブルガリア、ソフィア
破壊された時期:1943〜1944
破壊者:連合軍の爆撃
ブルガリアの首都ソフィアにある国立図書館です。1878年4月4日に、ソフィアの文化的、教育的発展のために設立されました。
設立から3年後の1881年、国立図書館の地位を獲得しました。1939年には新しい建物が建設されました。
ソフィアの文化的中心でしたが、第二次世界大戦中の1944年に連合軍の爆撃を受け、新旧両方の建物が破壊されました。
戦後、復興が行われ、1953年に『ヴァシルコラロフ図書館』という新しい名前と新しい建物で再開されました。
1963年に、図書館の名前が『ヴァシルコラロフ図書館』から『SS.キリルとメトディウス図書館』に変更されました。
図書館は現在、ブルガリアで最大、最古の公立図書館であり、オスマン帝国に関する蔵書を豊富に所蔵しています。
ザウスキ図書館
・建設中の図書館
・現在の図書館
場所:ポーランド、ワルシャワ
破壊された時期:1944年
破壊者:ドイツ軍
1747年から1795年にかけて建設された、歴史ある図書館です。ポーランドで最初の公立図書館であり、最大の図書館でした。そして、不運の図書館でもありました。
図書館は開館当初でも、約20万点もの蔵書を誇っていました。蔵書の数は徐々に増え、1790年頃には約40万点にも増えました。
1794年、ロシア帝国の女帝エカテリーナ2世の命令を受けたロシア軍が図書館を襲撃、いくつもの蔵書を奪い去りました。これが最初の不運です。
奪い去られた蔵書は、エカテリーナ2世の私蔵に収められました。1年後、ロシア帝国公立図書館の蔵書となりました。奪い去られる際、多くの本が損傷され、盗まれて失われました。
奪い去られた蔵書の一部は、1842年と1863年の二回にわけてポーランドに戻ってきました。その後、 1920年代にソ連が5万点ほどの蔵書を返還しました。
それでも、返還されたのはほんの一部にすぎません。
図書館の不運は続きます。1944年10月にドイツ軍が建物を攻撃、建物と蔵書が破壊されました。ほんの僅かな蔵書だけが戦争を生き延びました。
戦後、再建されました。
レバノン国立図書館
・破壊される前、1930年代の図書館
場所:レバノン、ベイルート
破壊された時期:1975
破壊者:レバノン内戦
この図書館は1921年に設立されました。二度の世界大戦を生き延びた図書館でしたが、1975年に勃発したレバノン内戦で破壊されました。
図書館はレバノン内戦の間、何度も繰り返し爆撃され、蔵書は略奪されました。
かつては10万冊に及ぶ蔵書を誇った図書館でしたが、内戦の間にほとんどが燃やされたり盗まれたりして失われました。
1979年に建物は閉鎖され、生き残った蔵書は国立公文書館に保管されました。
レバノン内戦は1990年まで続きました。
図書館の再建計画は1999年に始まりました。この計画の費用は総額700万ドルと見積もられました。150万ドルはEUから寄付され、残りは他の政府や民間の支援者から寄付されました。無事に再建されました。
カンボジア国立図書館
・再建された現在の図書館
場所:カンボジア、プノンペン
破壊された時期:1976年から1979年の間
破壊者:クメール・ルージュ
カンボジア国立図書館は、1924年12月24日にフランス植民地政府によって発足しました。その後、1951年までフランスによって管理されていました。
カンボジアがフランスから独立したのは1953年でした。その後しばらくは、図書館は安定して運営されていました。しかし、カンボジア支配がクメール・ルージュの手に渡ると悲劇が起こりました。
クメール・ルージュは、カンボジア中の図書館を閉鎖し、クメール・ルージュのための宿泊施設として使用し始めました。そして、所蔵されていたほとんどの本とすべての記録を燃やし尽くしました。
クメール・ルージュ政権が倒されると、国立図書館はさまざまな海外の政府や機関の支援を受けて再建されました。
今日、カンボジア国立図書館は10万冊もの蔵書があります。
ジャフナ公立図書館
・再建された現在の図書館
場所:スリランカ、ジャフナ
破壊された時期:1981年5月
破壊者:暴徒
ジャフナ公立図書館は1933年に建てられました。それから何十年もの間、ジャフナのランドマークの1つでした。しかし、1981年に焼失しました。
ジャフナは、多数派のシンハラ人と少数派のタミル人が共存する街でした。しかし、シンハラ人とタミル人の関係は最悪でした。度々、死人が出るほど激しい武力衝突が起こるほどの関係の悪さでした。
1981年5月、シンハラ人の暴徒と警察がジャフナ北部で暴れ回り、図書館を全焼させました。
2001年に図書館の修理が完了しました。
ブカレスト中央大学図書館
・1900年頃、建築当初の図書館
・再建された現在の図書館
場所:ルーマニア、ブカレスト
破壊された時期:1989年12月2日
破壊者:ルーマニア陸軍
ブカレスト大学は1864年に設立されましたが、当初はまだ図書館は併設されていませんでした。学生たちは、別の場所にあった図書館を使用していました。
ブカレスト中央大学図書館は1895年に設立されました。そして、1914年に新しい棟が建てられました。
運良く、二度の世界大戦を生き延びた建物でしたが、1989年のルーマニア革命の際に破壊されました。
ルーマニア革命の際、建物で火災が発生して数万冊の蔵書が焼えました。
革命はスグに収まり、1990年4月から建物の修理と近代化が行われはじめました。長い時間をかけた修理が行われ、2001年11月20日に営業が再開されました。
サラエボ大学オリエンタルインスティテュート
・現在のサラエボ大学
場所:ボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエボ
破壊された時期:1992年5月17日
破壊者:ボスニア軍
サラエボ大学オリエンタルインスティテュートは、旧ユーゴスラビアで最古の高等教育機関サラエボ大学の研究所として、1950年に建てられました。
何人もの優秀な人材排出してきました。そんな優秀な大学ですが、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦のサラエボ包囲戦で、完全に破壊されました。オリエンタルインスティテュートも一緒に破壊されました。
1992年5月18日、セルビア人を主体とするスルプスカ共和国軍によって砲撃を受け、大学とその敷地の建物、オリエンタルインスティテュートおよびいくつもの蔵書が完全に破壊されました。
建物は、町の中心部を見下ろす丘の上から発射された焼夷弾のカーテンに覆われました。大きな4階建てだった建物は完全に焼失し、その蔵書も燃やし尽くされました。
所蔵していた東洋の写本は、世界で最も豊富でした。何世紀にもわたって、人々の生活マニュアルとして、人々の生活に役立つように東洋の広い地域で書かれたものでした。
ボスニア・ヘルツェゴビナ国立大学図書館
・1941年の図書館
・廃墟の中でチェロを演奏するヴェドラン・スマイロヴィッチ
・再建された現在の図書館
場所:ボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエボ
破壊された時期:1992年8月25日から26日
破壊者:ボスニア軍
1945年に、人々の生活と文化に関する知識を提供するために建てられた図書館です。
しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦のサラエボ包囲戦で、図書館は完全に破壊されました。
1992年8月25日から26日までの間、セルビア人を主体とするスルプスカ共和国軍のメンバーが図書館を砲撃し、完全に破壊しました。蔵書の多くも破壊されました。
イラク国立図書館、バグダッド大学中央図書館、モスル大学の中央図書館、その他いくつもの図書館
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場所:イラク、バグダッド
破壊された時期:2003年4月
破壊者:バグダッド市民
2003年のイラク戦争中に、いくつかの図書館が略奪され、発砲されて被害を受けました。程度はさまざまなです。
エジプト科学研究所
・攻撃を受けた姿
場所:エジプト、カイロ
破壊された時期:2011年12月
破壊者:エジプト革命中の街頭衝突の余波
1798年にナポレオンによって設立された、エジプトで最も古い科学研究所です。図書館ではありませんでしたが、20万冊にも及ぶ貴重な文書が所蔵されていました。
科学研究所が収容されていた建物は、2011年のアラブの春の騒乱に巻き込まれました。故意か偶然か分かりませんが、モロトフカクテルが投げ込まれて全焼しました。数多くの貴重な文書も燃えて灰に変わり果てました。
建物が燃えている間、消防隊は街頭衝突の影響で到着することができませんでした。幸い、ボランティアが燃えている建物に駆け込み、多くの貴重な文書を安全な場所に運んでくれました。おかげで、文書の被害は最小限に抑えられました。
建物は再建され、2012年12月に再開しました。
アハメドババ研究所(ティンブクトゥ図書館)
・破壊される前の図書館
場所:マリ、トンブクトゥ
破壊された時期:2013年1月28日
破壊者:イスラム原理主義者
1973年に、トンブクトゥの研究の中心地として建てられました。17世紀のトンブクトゥの学者アハメド・ババ・アル・マスフィにちなんで名付けられました。
最初の建物は老朽化が進んだので、2009年に南アフリカの建築家が設計した新しい建物が建てられました。新しい建物が破壊されました。
建物が破壊される直前まで、トンブクトゥの街はイスラム原理主義者に支配されていました。彼らはアハメドババ研究所を拠点の一つとして使用していました。
2013年1月28日、フランス軍とマリ軍がトンブクトゥ空港を占領しました。これにより、イスラム主義者は逃亡。その際に、使用していた建物に火を放ちました。
アハメドババ研究所は全焼しました。
約4,000点の蔵書が破壊または損傷しましたが、地下保管庫に保管されていた約10,000点の蔵書は損傷を受けませんでした。
また、占領中にトンブクトゥの住民は、アハメドババ研究所に所蔵されていた何万もの貴重な写本を、イスラム原理主義的の目を盗んで比較的安全な場所に密輸するという大きなリスクを冒しました。
このおかげで、大切な書物の多くは無事でした。
ちなみに、反政府勢力が破壊した蔵書はすべて、デジタル形式で保存されていたので、データは残っています。
2014年7月、ユネスコが復興のための資金援助を呼びかけました。
ボスニア・ヘルツェゴビナ国立公文書館(一部)
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場所:ボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエボ
破壊された時期:2014年2月7日
破壊者:7人のボスニア人。そのうちの2人が逮捕されています。
2014年に起こった、ボスニア・ヘルツェゴビナでの騒乱の際に、図書館が所蔵していた大量の歴史的な貴重な文書が破壊されました。
なんと、約60パーセントもの蔵書が失われたと言われています。
ちなみに、7人のボスニア人が破壊したとして疑いをかけられ、内2人が逮捕されました。後に厳重な監視付きで釈放されています。
あとがき
いくつもの図書館が歴史の中で、人の手によって破壊されてきました。
今回紹介した図書館は、ほんの一部に過ぎません。ここでは紹介しきれないほどの図書館が破壊されています。中には、記録にすら残っていない図書館もあることでしょう。
記事を読んでいただいてわかると思いますが、図書館の破壊は昔のことではありません。現在進行系です。
最近の破壊の例は、ISによる図書館の破壊です。
2014年12月にイラク、モースル大学図書館、アルアンバル県の図書館の2つ。
2015年2月にイラク、モースル公立図書館(ニナワ中央公立図書館)を破壊しています。
人々の人類の叡智の結晶である図書館。保存していかなくてはならないものです。