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人類の犯した過ち 負の世界遺産の一覧

こんにちは。YoFuです。

今回は『テーマ別の世界遺産の一覧 負の世界遺産』をお送りします。

人類が犯してきた過ち。

二度と過ちを繰り返さないように、人類の犯した過ちを知るための世界遺産です。

何をもって負の世界遺産とするか定義は曖昧ですが、華やかさの裏に悲劇があることだけは確かです。

とは言っても、人類は過ちから何も学ばずにこれからも同じ過ちを繰り返すのでしょう。

 

アジア

原爆ドーム

世界で初めて、人を殺す目的で使用された核による惨劇の痕跡

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国:日本

登録年:1996年

1945年8月6日8時15分17秒、原子爆弾が原爆ドームの上空約580m、南東160mで爆発、広島のすべてを破壊しつくしました。

その威力は凄まじく、たった1発で15万人以上もの人間を殺しました。

爆心地のスグそばに建っていたにも関わらず、吹き荒ぶ爆風とすべてを溶かす熱線に耐えた建物が原爆ドームと呼ばれるようになりました。

負の世界遺産の代表の一つです。

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群

宗教間の争いの果ての空虚

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国:アフガニスタン

登録年:2003年

仏教美術の中心として栄え、高さ38mと55mの2体の巨大な仏像をはじめとした数多くの磨崖仏と数多くの壁画があった遺跡です。

イスラムとの宗教争いに巻き込まれて荒廃していきました。

2001年、争いの果てに数多くの仏像がイスラム過激派タリバンによって爆破されました。

現在はポッカリと穴が空いた空洞となっており、争いの果ての虚しさだけだそこにあります。

 

フエの建造物群

同じ民族同士で殺し合った悲劇の象徴

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国:ベトナム

登録年:1993年

ベトナム最後の王朝がフエに建築した華麗な王宮。しかし、現在はもう当時の面影は残っていません。

北ベトナムと南ベトナムの2つの陣営に分かれ、同じ民族同士で殺し合ったベトナム戦争の際、戦禍に巻き込まれて破壊されました。

南ベトナム側の陣地であったフエは、北ベトナムに攻め込まれました。激戦の末、フエは北ベトナム側に占領されました。

占領の際、フエに住んでいた何千人もの人が同じ民族であるはずの北ベトナム側に虐殺されました。

フエの王宮はその虐殺の様子を残らず見ていました。

ヨーロッパ

アウシュヴィッツ=ビルケナウーナチス・ドイツの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)

人種差別が行き着く先の必然

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国:ポーランド

登録年:1979年

ナチスドイツはアーリア人至上主義を掲げ、人種差別を強烈に推し進めました。ユダヤ人やジプシーなどが主な差別対象とされ、ただユダヤ人というだけで収容所へ強制的に送り込まれました。

収容所はナチスドイツの支配している地域の各地に作られ、アウシュヴィッツはその中の一つです。

第二次世界大戦末期、収容所はユダヤ人を殺戮・絶滅するための場所へと変わり、毎日数え切れないほどの人が殺されました。

一番多くの人が殺された収容所がアウシュヴィッツです。その数は150万人にも及びます。すべての収容所を合わせると、虐殺された人は600万人にも及びます。

負の世界遺産の代表の一つです。

ソロヴェツキー諸島の文化的・歴史的建造物群

共産主義の闇が蠢く白亜の修道院

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国:ロシア

登録年:1992年

遺産群のメインはロシア正教のソロヴェツキー修道院です。

ソロヴェツキー修道院はロシア正教最大級の要塞を備えた修道院です。要塞は鉄壁を誇り、数多の敵の侵攻を防いできました。

ソ連誕生後、ソビエト政府に接収されて共産主義に反対する人たち、ソ連内部の敵を収容する強制収容所として使われ始めました。外からの敵の侵入を阻む鉄壁は、内からの敵の侵入も阻む鉄壁でした。

収容された人の数は65万人にも及び、女性・子ども構わずに送り込まれました。

彼らは劣悪な環境で強制労働に従事させられ、多くの人が犠牲になりました。さらに、拷問や処刑は日常茶飯事で、飢餓や病気、看守からの暴行などでかなりの人数が命を落としました。

第2次世界対戦開戦前に強制収容所は閉鎖され、海軍の士官学校に変わりました。

モスタル旧市街の古い橋の地区

近所に住む人同士で殺し合っていたことを見ていた

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国:ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

登録年:2005年

モスタルは街の中心を流れるネレトヴァ川を挟んで東側にボシュニャク系、西側にクロアチア系の住民が住んでいました。街の東西を結んでいたのは『スタリ・モスト』という名の橋でした。異なる民族の架け橋、民族共存の象徴でした。

1992年、敵対する民族を根絶やしにするための争い、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が勃発。

民族同士の憎み合いは兵士だけでなく一般市民にまで浸透し、昨日まで笑い合っていた友達同士、近所の人同士で殺し合いが始まりました。

モスタルも例外ではなく、東西の住民同士が殺し合い、街は荒廃しました。

民族共存の象徴だった『スタリ・モスト』はクロアチア人の手によって破壊されました。

ヴィシェグラードのソコルル・メフメト・パシャ橋

近所に住む人同士で殺し合っていたことを見ていた

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国:ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

登録年:2007年

ヴィシェグラードには、ボシュニャク人とセルビア人が住んでいました。異なる民族同士でしたが、仲良く暮らしていました。

1992年、敵対する民族を根絶やしにするための争い、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が勃発。

昨日まで笑い合っていた近所の人同士で殺し合いが始まりました。

殺し合いの結果、街はセルビア人ミラン・ルキッチの支配下におかれました。

彼はボシュニャク人を恐怖のどん底に陥れました。

セルビア人はボシャニャク人を連行し、暴行、拷問、処刑、強姦などを繰り返しました。橋の上で連行したボシャニャク人を処刑し、川に投げ捨てました。

セルビア人による残虐行為は紛争が終わるまで続きました。

橋はセルビア人の一部始終を見ています。

アフリカ

ゴレ島

世界最大級の人間出荷拠点

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国:セネガル

登録年:1978年

ゴレ島はアフリカ各地から収穫してきた黒人を奴隷としてアメリカ大陸へ出荷する、出荷拠点でした。

ゴレ島からアメリカに出荷された黒人奴隷の数は、アフリカのどこの出荷拠点よりも多いです。

ゴレ島では、アフリカ各地から収穫してきた黒人を出荷基準に満たすようにする調整も行われました。

体重60kg以上の男の値段が銃一丁だったので、体重60kgに満たない場合、家畜のように大量の肥料を与えられて肥え太らされました。

白人の子どもを妊娠した少女は出荷を免れたため、進んで体を差し出したそうです。

悲惨な黒人の状況の反面、奴隷貿易で栄えた街は美しい色合いの家々が立ち並び、リゾート地のようです。

ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群

人間を出荷していた城

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国:ガーナ

登録年:1979年

アフリカ各地から収穫していきた黒人奴隷をアメリカ大陸へ出荷する、出荷拠点でした。

こうした、城塞の形の出荷拠点はアフリカ沿岸各地に60以上もありました。現存しているのは1/3程度です。

連れてこられた人々はアメリカに出荷する船を待たされている間、手錠と鎖で体を縛りつけられて自由を奪われた状態で暗くて狭い部屋に押し込まれました。

押し込まれた部屋は劣悪な環境で、満足な食事は与えられず、糞尿は垂れ流しでした。劣悪な環境の中で命を落とした人がかなりいて、生き延びた人だけが奴隷として出荷されました。

ロベン島

人種差別、そして差別と戦い続けた象徴

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国:南アフリカ

登録年:1999年

ロベン島は人種隔離政策に反対する人たちを収容する有色人種専用の刑務所でした。

当時の南アフリカは白人が法律によって優遇されており、黒人に対してやりたい放題でした。黒人はその状況に声を上げることすら禁止されていました。

声をあげた人が収容される収容所でした。

1961年に収容所として使われ始め、白人を優遇する法律アパルトヘイトが廃止された1991年に閉鎖されました。

約30年間で3000人以上もの人が収容されました。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラもここに収容されていました。

ちなみに、黒人だけでなくアジア人や白人と黒人のハーフも収容されていました。

ザンジバル島のストーン・タウン

アフリカで異質な街は世界史でも異質な街に

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国:タンザニア

登録年:2000年

ザンジバル島は、紀元前からアジアとアフリカの貿易拠点として栄えました。

必然的にアラブの文化とアフリカの文化が融合することになり、本土の文化とは違う、ザンジバル島独自のスワヒリ文化が作り上げられました。

そのため、アフリカの中で独特で異質な島となっています。島には石造りの建物が立ち並んでいることからストーンタウンと呼ばれています。

ポルトガルに占領された後、貿易で出荷されるのが黒人奴隷になりました。

ストーンタウンは東アフリカ最大の黒人奴隷出荷拠点となりました。

クンタ・キンテ島と関連遺跡群

奴隷貿易による、奴隷貿易のための島

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国:ガンビア

登録年:2003年

クンタ・キンテ島はアフリカ各地から収穫していきた黒人奴隷をアメリカ大陸へ出荷する、出荷拠点でした。

ここからのべ300万人もの黒人奴隷が出荷されました。

奴隷貿易のために人々が定住を始めました。奴隷貿易が終わると、定住していた人々は引き上げました。まさに、奴隷貿易のためにつくられた島です。今はバオバブの木とペリカンだけが定住しています。

アボメイの王宮群

同胞を売り払って栄華を極めた王国

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国:ベナン

登録年:1985年

白人は奴隷貿易で膨大な富を獲得しました。これに加担したのは他でもない、同胞たち、同じアフリカに住む人々です。

白人たちが出荷していた黒人は、白人たちが自分で集めていたわけではなく、アフリカの人々に集めさせていたものなのです。

アフリカの原住民たちは白人から銃を仕入れ、それを使って他部族を狩りました。そして、収穫した黒人を白人に売り飛ばしました。

奴隷貿易に積極的に加担したのがダホメ王国です。ダホメ王国は多くの同胞を白人に売り飛ばし、大いに繁栄しました。アボメイはダホメ王国の首都として栄華を極めました。

ル・モーンの文化的景観

「自由を求めた奴隷たちの戦いのシンボル」世界遺産に登録された理由より

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国:モーリシャス

登録年:2008年

モーリシャス島はかつて、奴隷貿易の商船が立ち寄る場所でした。

船に積まれていた奴隷たちは一瞬のスキを突いて逃げ出し、ル・モーン山の洞窟や山頂に隠れ住みました。彼らはコミュニティを形成して暮らしつつ、白人の追手と戦いました。

逃げ出した奴隷の中には、岩山から身を投げて自ら命を捨てる人もいました。奴隷として生きるよりも、人として死ぬことを選択して。

北アメリカ

トリニダとロス・インヘニオス渓谷

奴隷の街と奴隷の渓谷

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国:キューバ

登録年:1988年

スペインに支配されていた時代、トリニダの街は砂糖の生産で大いに栄えました。

トリニダの栄光を支えたのが奴隷と先住民です。

トリニダの街の北西14kmにあるロス・インヘニオス渓谷が砂糖の生産拠点で、かつては70もの砂糖工場が立ち並んでいました。働かされていたのは先住民と黒人奴隷です。

スペイン人は当初、先住民を強制労働させていましたが、自らが持ち込んだ伝染病や過酷な労働で殺していきました。労働力が足りなくなると、アフリカから黒人奴隷を輸入しました。

強制労働させられた奴隷を監視するために建てられた、高さ45mのイスナーガの塔が悲しみの象徴。

グアナフアト歴史地区とその銀鉱群

奴隷の街と奴隷の銀山

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国:メキシコ

登録年:1988年

スペインに支配されていた時代、グアナファトは銀の採掘で大いに栄えました。

グアナファトの栄光を支えたのが先住民と奴隷です。この地だけで世界の銀の生産量の15%を占めていました。

スペイン人は当初、先住民を強制労働させていましたが、自らが持ち込んだ伝染病や過酷な労働で殺していきました。労働力が足りなくなると、アフリカから黒人奴隷を輸入しました。

スペイン人が先住民を虐殺した結果、2500万人いた先住民は100万人にまで減ってしまいました。

色とりどりの家々が立ち並び、最も美しい街と称されるグアナファトは数え切れないほどの先住民と黒人奴隷の血で彩られてたものです。

南アメリカ

カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群

難攻不落の黒人奴隷要塞

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国:コロンビア

登録年:1984年

スペイン人が南アメリカ各地で簒奪したエメラルドや銀、タバコなどを本国に輸送する港であり、アフリカから出荷されてきた黒人奴隷を取引する港でありました。

「インディアスの真珠」と呼ばれるほど繁栄した港です。

簒奪してきた貴金属を狙った海賊、利権を狙ったイギリスやフランスなどに度々攻撃を受けたので、防御のために高さ12m厚さ17mの城壁をのべ4kmも張り巡らせました。

もちろん、労働力は黒人奴隷でした。黒人奴隷が作った城壁の内側は、アンダルシア風の明るい街が並んでいます。

ポトシ市街

800万の先住民・黒人奴隷の死体が積み重なって出来ている山の麓の街

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国:ボリビア

登録年:1987年

ポトシ市街は世界最大の銀鉱脈のセロ・リコ銀山の麓の街です。銀山から採れる銀によって栄華を極めました。

銀を採掘したのは奴隷にされた先住民です。

先住民は悪魔ティオの伝説から、入山を拒んでいました。スペイン人はコカインやアルコールなどを与え、先住民から悪魔ティオや閉所への恐怖、空腹と疲労、痛みと苦しみをむりやり取り払い、奴隷として強制的に労働させました。

奴隷にした先住民の数が少なくなると、奴隷狩りをしたり、アフリカから黒人奴隷を輸入して補充しました。

最終的に800万人もの奴隷が山で命を落としています。

オセアニア

ビキニ環礁の核実験場跡

核の時代が到来したことを示す象徴

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国:マーシャル諸島

登録年:2010年

ビキニ環礁はアメリカが1946年から58年にかけて67回もの核実験を行った場所です。

周辺の住民や漁船を被爆させました。

猛烈な威力により、海に巨大な穴をあけました。

美しい海の中にポッカリと空いた穴は何かが落ちるのを待っています。

オーストラリアの囚人遺跡群

同じ国の人を奴隷として強制労働させた刑務所

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国:オーストラリア

登録年:2010年

オーストラリアがイギリスの植民地であった頃、オーストラリア開拓に従事させるために囚人が本国から送り込まれました。

1787年から1868年までの間にのべ16万6千人もの囚人が送り込まれ、中には9歳の子どももいました。

送り込まれた囚人は同じ国の人から奴隷のような扱いを受け、開拓に強制的に従事させられました。

こうした監獄はオーストラリア各地に作られ、オーストラリア発展の基礎となりました。