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インドの宗教建築 仏教寺院・ヒンドゥー寺院・ジャイナ寺院・イスラム建築

こんにちは。YoFuです。

今回は『旅を楽しくする知識 インドの宗教建築』をお送りします。

様々宗教がうごめくインド。各地でいくつもの宗教が生まれては宗教建築を残して消えていきました。

インドは新しい宗教が誕生しても、他宗教の寺院であっても壊すことはしませんでした。そのため、非常に多くの宗教建築が残っています。それがインドの宗教建築の魅力です。

今回は、インドの主要な宗教である仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、イスラム教を主に取り上げます。

インドの魅力的な宗教建築、その素晴らしさを体験することのお手伝いになれば。

 

インド建築の特徴

いくつもの宗教が共存し、他宗教の建築を壊し合うことなく、それぞれの宗教建築が残っていることが最大の特徴。

また、インドの宗教は出発地点が共通で、気候風土の違いがないので、多くの宗教建築はとても似ている。

インド人が最も好んだ建築手法は彫刻。多くの寺院で彫刻がびっしりと施されている。究極、寺院をも彫刻のように作った。絵画はそれほど残っていないのに、彫刻、彫像はかなり数が残っている。

古代インドは木造建築が主流だったが、次第に石造建築に変わっていく。木造建築の名残で、石造建築なのに柱と梁構造であるかのように彫刻・装飾されることが多い。

インドの宗教には輪廻の思想があるので、墓を立てる習慣がなかった。大々的に登場するのはイスラム建築から。

水辺は宗教的に神聖視されるので、河や水利施設などが寺院と結び付けられた。水辺に寺院を設けたり、大きなクンダ(階段池)と組み合わされたりした。クンダはどんな水位のときでも階段で水面に降りられるようになっている人工的な貯水池。

古代インドの支配宗教であったバラモン教は建築を残さなかったため、宗教建築の歴史は仏教建築から始まる。

仏教

紀元前5世紀ころに誕生、13世紀ころに消滅。

仏教寺院は僧のための建築。出家した僧が生活し、修行し、悟りを開くためのもの。

僧のための建築であるヴィハーラ(僧院)と本尊のための建築であるチャイティヤ堂の2つから構成されているが、あくまでもヴィハーラこそが仏教建築の主体。

仏教寺院は木造、レンガ造、石窟と多様に作られたが、石窟寺院に一番力が注がれた。インドに残る全ての石窟寺院のうち大多数が仏教寺院である。

最初期の仏教建築

今でこそ仏教寺院に仏像はつきもので、仏像を礼拝するのが一般的。しかし、仏像は仏教が誕生してから500年以上もの間存在しなかった。

仏像が誕生するまでは、チャイティヤと呼ばれる、菩提樹や仏足石、法輪、台座などのブッダを暗示もしくは象徴するものが礼拝対象だった。

そのうち、菩提樹が荘厳されるようになった。欄循(垣根)が周囲にめぐらされ、トラナ(門)がつけられて、ボーディガラ(菩提樹堂)と呼ばれるようになる。これが最初の仏教寺院の形。

その後、仏舎利を収めるための饅頭形の塚(ストゥーパ)が築かれた。礼拝の対象とされ、チャイティヤグリハ(ストゥーパを祀るチャイティヤ堂)となった。

インド中部、マディヤ・プラデーシュ州、ラーイセーン県の村サーンチーにあるストゥーパが現存最古のストゥーパ。紀元前3世紀ころに建てられた。

仏像の誕生

仏教が誕生したのは1世紀ころ。

現在のパキスタン北部ガンダーラでインド文化とギリシア文化が出会い、ギリシア彫刻の影響を受けて仏像を作り始めた。

当初ガンダーラで作られた仏像はとても写実的で、ギリシア的だった。それがインドに伝わると、インド的な仏像が作られ始めた。

石窟寺院の誕生

石窟寺院が初めて作られたのは紀元前3世紀ころ。以降、13世紀ころまで作られた。

最初に石窟寺院を作ったのは仏教ではなく、アージーヴィカ教だった。

後にジャイナ教に吸収されて消えてしまうアージーヴィカ教がアショーカ王の保護のもとで最初の石窟寺院を作った。

インド西海岸のマハーラーシュトラ州、アウランガーバードにあるエローラ石窟寺院群の一つ、ローマス・リシ窟が最初の石窟寺院。

石窟寺院は石窟内を彫って形作る。どのようにも彫刻できるので、木造建築のように彫刻するのが好まれた。あたかも柱と梁構造で寺院を建てたかのように、柱や梁が彫刻された。当時の技術では作ることのできなかった理想形の木造建築を石窟内に表現したのかもしれない。

石窟寺院は、本尊をまつるチャイティヤ窟と僧侶が住むヴィハーラ窟の2つの石窟で構成されている。

石窟内に菩提樹を植えることができなかったので、ストゥーパがチャイティヤとして一般的となり、チャイティヤ=ストゥーパとなった。なので、チャイティヤ窟で本尊として祀られているものは基本的にストゥーパ。

石窟寺院が誕生してしばらくしてから、仏像がインドで作られ始める。仏像は石窟寺院のあり方を変えた。仏像成立以前を前期(紀元3世紀ころまで)、以後を後期(紀元5世紀ころから)と呼ぶ。

前期石窟寺院

ストゥーパを祀るチャイティヤ窟を中心に僧院のヴィハーラ窟がいくつか設けられた。

純粋に僧のための空間であった。出家をしてきた僧が解脱に至るために修行し、生活する場。それが前期の石窟寺院であった。

純粋に、仏教の教えを体現した。

後期石窟寺院

僧のための空間から仏像のための空間へと変わった。寺院のあり方そのものが変わった。

本尊として祀っていたストゥーパは抽象的だったので、具象的な仏像のほうが好まれた。次第に、ストゥーパにかわって仏像が本尊として祀られるようになった。そして、仏像が寺院の中心となった。

寺院が僧のための建築から仏像のための建築に変わったことで、寺院の本来の目的がぶれてしまった。結果として神々を祀るヒンドゥー寺院と同質となり、仏教建築としてのアイデンティティを失い、仏教自体が消えることとなってしまう。

仏像の登場で大きく変貌したのはヴィハーラ窟。ヴィハーラ窟の中に仏像のための祠堂が設けられたことによって、僧のためだけの空間が仏像のための空間も併せ持つようになった。極端な例では、ヴィハーラ窟がそもそもなく、仏像を祀るチャイティヤ窟だけの石窟寺院もつくられるようになった。

一方、チャイティヤ窟は前期のものと建築的には変わらなかったけれども、ストゥーパの扱いが大きく変わった。礼拝対象が仏像に変わったことで、ストゥーパの前面に仏像が彫刻されるようになり、仏像の背景になりさがった。

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その後、石窟寺院は仏教が消える13世紀ころまで作られ続けた。

インド西海岸、マハーラーシュトラ州のアジャンター仏教石窟群に前期と後期両方の石窟寺院が残っていて、見比べることが出来る。

仏跡

ブッダ生誕地ルンビニ、悟りを開いた地ブッダガヤ、初転法輪地サールナート、涅槃地クシナガラが四大仏跡。

ブッダが滞在したシュラーヴァスティ、ラージギル、ヴァイシャーリー、サンカシアの4つを加えて八大仏跡ともいう。

ヒンドゥー教

紀元前5世紀ころに誕生、現在も続く。

ヒンドゥー寺院は神のための建築。神の住まう家。朝に扉が開けられ、食事が捧げられ、灯りがともされ、音楽でもてなされ、夜は扉が閉ざされる。寺院というよりは神殿に近い。

ヒンドゥー教の僧侶になれるのはバラモン階級のみなので、仏教のように出家して僧院で修行する必要がない。なので、僧院がなく、建築すべてが神々のためのもの。

ヒンドゥー寺院の基本思想

古代インドのバラモン教が各地の民間宗教や部族宗教を取り込んだもので、バラモン教時代にいた多数の神々はシヴァ神とヴシュヌ神に統合された。

どちらを信仰するかによってシヴァ派とヴィシュヌ派に別れる。両者の寺院に建築的な違いはなく、どちらを本尊として祀っているかの違いのみ。

ヴシュヌ派はヴシュヌ神の彫刻が本尊。シヴァ派はシヴァ神の象徴リンガが本尊。リンガは豊穣祈願の男根で、女陰ヨーニの上に据えられる。

本尊が祀られる聖堂は正方形でガルバグリハと呼び、女性の胎という意味を持つ。

ヒンドゥー寺院の誕生

初期のヒンドゥー寺院は仏教寺院から影響を受けた。

現存する初期のヒンドゥー寺院はティガワーのカンカーリー・デヴィー寺院。サーンチーの仏教寺院とほとんど同じ形をしている。

次第に自らの建築様式を作り上げていくが、北の民族アーリア人と南の民族ドラヴィダ人との民族的違いにより、8世紀ころから北と南でそれぞれで異なった様式が作られていくようになる。

南方型はドラヴィダ系の南部4州(タミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州)だけ、ここ以外はすべて北方型。

北方型は水平方向が強調されたデザイン。南方型は垂直方向が強調されたデザイン。

ヒンドゥー寺院は総じて、外観は豊かに彫刻するが、内部空間は貧相でおざなり。外観を華やかにすることだけに力を注ぎ、内観にはまったく力を注がない。

外観を素晴らしいものしている北方型シカラと南方型ピラミッド状の水平層も内側は屋根裏にすぎず、実用的には必要のない彫刻的な飾り。

ヒンドゥー教は集団礼拝をしないので内部空間をあまり必要としなかったことや、アーチやドームの構造を知らなかったことなどが、内部空間が貧相な理由だと思われる。

南方型のヒンドゥー寺院ドラヴィダ様式

正方形のガルバグリハ(聖室)を中心に据え、プラダクシナー・パタ(繞道)で取り囲む。その正面に礼拝空間マハーマンダパ(大礼拝堂)を設け、アンタラーラ(前室)でつなぐ。これが本堂の基本形となる。

ガルバグリハの上にターラ(水平層)をピラミッド状に積み上げ、頂部にシカラ(冠石)を置き、先端にストゥーピ(頂華)を飾る。

これがドラヴィダ様式の寺院の典型。ターラのピラミッド状の重なりが最大の特徴。

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チョーラ朝

南方型ヒンドゥー寺院を発展させた王朝。

本堂の建築に力を注いだ。

当初は小型であったが、本堂を立派にすることに力を注ぐうちに、本堂自体が徐々に大きくなっていった。

集大成として、11世紀初頭に高さ60メートルを超える大寺院、プリハディーシュワラ寺院を作った。

ヴィジャヤナガル朝

チョーラ朝滅亡後、北インドを征服したイスラム勢力に対抗するためにできた南部の連合王国。

南方型のヒンドゥー寺院の爛熟期。本堂ではなく、細部の装飾に力を注いだ。南インドを装飾過剰の世界に作り上げた。特に柱への装飾は世界屈指の芸術作品。

寺院の領域の拡大にも力が注がれた。とりわけ発達したのがゴープラム(境内への門)。チョーラ朝のような巨大な本堂は建てず、小さいままにして、周辺に諸堂を建てて境内を塀で矩形に囲み、入り口にゴープラムを建てる。寺院が都市のように巨大になりった。

中心から外側にいくほど高くなる、高さが60m〜80mにも達する巨大なゴープラムを林立させた。ゴープラムの上部はコスト削減のためにレンガ造りとなり、漆喰で仕上げられている。表面は彩色され、ヒンドゥー寺院を極彩色の世界に作り変える。彩色は劣化するので、20〜30年で彩色し直す。巨大なゴープラムが作り出す極彩色のスカイラインが近世南インドの都市風景の特徴。

北方型のヒンドゥー寺院ナーガラ様式

正方形のガルバグリハを中心に据え、プラダクシナー・パタで囲む。すぐ正面にマハーマンダパ、マンダパ、ポーチと設けた。ガルバグリハの上にシカラ(砲弾型の塔)を立ち上げ、アーマラカ(溝つき円盤)を載せ、小さなカラシャ(頂華)を飾る。そして、マハーマンダパとマンダパ、ポーチの屋根を設ける。ガルバグリハの屋根が際立つように、ポーチの屋根から段階的に高くしていく。

これがナーガラ様式の寺院の典型。最大の特徴がシカラ。シカラは垂直線が強調され、天高く伸びているかのよう。

インド東部、オリッサ地方ブバネーシュワルには100を超える寺院が残っており、ナーガラ様式の発達段階をたどることができる。

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カジュラーホのヒンドゥー寺院

ナーガラ様式の爛熟期。

インド中央のマディヤ・プラデーシュ州カジュラーホの寺院群が典型例。

インド建築が彫刻の建築であるという性格を如実に表している。壁面がおびただしい数の彫像で飾られ、シカラが小さいシカラが積み重なってできている。細部の独立性が非常に高いことを表している。

中間インドのヒンドゥー寺院ヴェーサラ様式

北方型と南方型の融合型。北インドと南インドの中間地点、デカン周辺で発達した。

北方型と南方型の特徴をあわせ持つのが特徴。

ヴィシュヌ神とシヴァ神を同時に祀ったり、複数の本堂がひとつのマンダパでつながっている、北方型と南方型の寺院が同時に存在している、などの特殊な様式が存在している。

ラーシュトラクータ朝

インド西海岸のマハーラーシュトラ州、アウランガーバードにあるエローラ石窟寺院群カイラーサ寺院。

インド人が最も好んだ彫刻。巨大な岩山を削って、まるで彫刻であるかのように作った寺院。ドラヴィダ様式が強く反映されている。

カイラーサとは、シヴァ神が住むとされているカイラス山をシンボライズしたもの。シヴァ寺院にカイラーサ寺院と名付けられることがあった。

ホイサラ朝

ヴェーサラ様式の爛熟期。

屋根は水平層の積み重ねだが、星型平面と彫刻で垂直性をもたせた。ドラヴィダ様式とナーガラ様式の融合型の屋根。星型平面で折れ曲がる各面には細かい彫刻が施された。

緑泥片岩で建てられ、隅々まで精度の高い彫刻が丹念に施されたている。

いくつかのマンダパが複数の聖室を繋げているので、多数の堂が連なって巨大な寺院となっている。

インド南部、カルナタカ州ソムナートプールのケーシャヴァ寺院が典型。堂が集合し、壮大な寺院を形作っている。

ベンガルのヒンドゥー寺院

ガンジス川とブラフマプトラ川による沖積平野のため石材に恵まれず、建築文化が育たなかった。16世紀になってやっと、レンガ造による建築が発達した。

レンガは石に比べると見劣りがするので、彫刻をほどこして焼いたテラコッタパネルで表面を飾った。それと、屋根の四隅を垂れ下がらせて雨季の豪雨に対応したバンガルダール屋根が特徴。

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ケーララとヒマラヤのヒンドゥー寺院

木造建築を建てることのできる限られた地域。ヒマラヤ地方と南インドの西側ケーララ地方。年間を通じて雨が降るので、古代から現代まで木造建築文化を保っている。

イスラム教の影響

近世の北インドはイスラム王朝の支配を受けたが、ヒンドゥー教を公然と信仰することができた。イスラムが持ち込んだ技術、アーチやドーム、内部空間などを使って寺院が建てられた。

イスラム的な大空間で、内部の壁面にはヒンドゥーの神々がまったく彫刻されていない、インドとイスラムの融合建築。外はヒンドゥー寺院で、内部がモスク。

ジャイナ教

紀元前5世紀に誕生、現在まで続く

アヒンサー(非殺生、非暴力)の思想をはじめとした、禁欲主義の宗教。教徒の多くは商人だった。

非所有の戒律のために、商人は資産を寺院に寄付したので、少ない信徒のわりには寺院の数が多くて立派。

24人の祖師はジナ(煩悩に打ち勝った者)あるいはティールタンカラ(救済者)と呼ばれ、寺院はすべてあるいはいずれかの祖師に捧げられる。

東インドで誕生後、信者の多くが南インドに移住した。非所有の戒律のために、僧は衣服を身に付けない。ところが、東インドの信徒たちはいつのまにか白い衣を着用するようになっていた。南インドの信徒たちは袂を分かち、裸行を続けた。

これがジャイナ教の2大宗派、白衣派と空衣派の分裂。教義自体に違いがあるわけではないので、寺院の形式も違いがない。

ジャイナ教寺院の誕生

ジャイナ教寺院は祖師が教えを説く場所。この性質が独自の寺院形式を創造していく。

当初は仏教寺院やヒンドゥー寺院を模倣して寺院を作っていた。

ジャイナ寺院の最大の特徴がチャトルムカ。四面という意味。

4人の祖師を座禅か直立不動のどちらかの姿勢で背中合わせにして四面像を作った。本尊にその四面像を配置し、本堂を四方向に開き、各面から本尊を礼拝することが出来るようにした。

ヒンドゥー寺院の本堂は前面しか開放されていない。一方向に方向性を持ってしまう。ジャイナ寺院は四方に開放されている。

また、ジャイナ寺院にはスタンバ(記念塔)が建てられることが多い。頂部に祖師の四面像をまつっていることが多く、これをマーナ・スタンバと呼ぶ。

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西インドのジャイナ教寺院

ジャイナ教を保護する王朝が多かったので、ジャイナ文化が発達した。

インド北部、ラージャスターン州アーブー山のディルワーラー寺院群。

すべてが白大理石で作られた寺院郡。外観の大人しさとは裏腹に、内部はとても華やか。柱や天井、壁など、床以外のすべてが繊細な彫刻で埋め尽くされている。

それまでのインド建築は外観を彫刻的に飾りあげることが全てで、内部は貧相だった。この寺院群は内部空間自体を華やかな芸術の1つとして作り上げた。

インド北部、ラージャスターン州ラーナクプルのアーディナータ寺院。

世界の建築様式の集大成。

イスラム建築の華やかな内部空間、伝統的なインド建築の彫刻の豊富さと木造的な柱と梁構造。世界の建築様式を融合して作った、比類のない唯一無二の建築。

ジャイナ教の聖地

ヒンドゥー教の聖地が水辺なのに対して、ジャイナ教の聖地は山の上だった。

山の上に寺院をいくつもつくり、都市のような寺院群、山岳寺院都市を山の上に作った。

山の上に建てた理由は分からないが、異教の集団から寺院を守るため、過酷な環境で厳しい修行をするため、現世を忌避するためなどの理由があるのだろう。

シャトルンジャヤ山、シュラバナ・ベラゴラ山、ギルナール山など。

イスラム教

13世紀にインドに侵入、現在まで続く

インドにおける最初のイスラム王朝は13世紀に建てられた。イスラム系の支配はイギリス領になる19世紀まで続く。ペルシアを経由して到来したので、ペルシア的な要素が強い。

イスラム建築の特徴はこちらでまとめてありますが、特に重要な特徴はアーチ、ドーム、内部空間、偶像の禁止。すべてヒンドゥー建築が持っていない技術と要素で、彫刻的なヒンドゥー建築とはまったく違う建築だった。

yofu.hatenablog.com

そもそも、インドの建築は木造建築から始まった。途中で石造建築がメインとなっても、柱と梁構造で寺院を作ってきた。そのため、イスラム建築の特徴であるアーチやドームのかけかたを知らなかった。

デリー・スルタン王朝のイスラム建築

最初のイスラム王朝はデリーを首都とした。以後350年間、デリーを首都とし続けたため、その期間をデリー・スルタン王朝と呼ぶ。後のムガル帝国とは別。

最初期は建築準備をする余裕がなかったので、ヒンドゥー教やジャイナ教の寺院を解体してモスク建築の材料に流用した。柱に彫刻されていた偶像的な要素は全て削り落とされ、インドの伝統的な建築要素を用いながらも偶像のまったくない、不思議な建築となった。

インド北部、デリーのクトゥブ・モスク、インド北部、ラージャスターン州アジュメールのアラーイ・ディン・カ・ジョンプラ・モスク。

西インドのイスラム建築

伝統的なインド建築に近い。

モスクをヒンドゥー寺院やジャイナ寺院の技法を使って建築したため、アーチがなく、柱が林立する列柱ホール、持ち出し構造のドーム。

豊かな細部彫刻は偶像こそないものの、インド建築そのもの。

南インドのイスラム建築

南インドはヒンドゥー教が守りを固めていたため、イスラム教は侵入することができなかった。デカン高原が最南。

西インドとは違い、イスラム建築技術を用いてモスクを作った。アーチとドームを使って幾何学のような内部空間を作った。

ビジャープル王国

蓮の華のような美しいドームを作った。ドーム、ミナレットはまったくの飾りで、実用的には必要がなかった。イスラム建築であることのサインにすぎなかった。

彫刻的効果が優先され、インド的要素が消えることはなかった。

ムガル帝国のイスラム建築

インドの南端を除く大部分を支配した帝国。インドにイスラム庭園の技法をもたらし、ムガル庭園の基礎をつくった。

高価な白大理石で多くのモスクや宮殿、廟などを建てた。これらの白大理石建築がムガル朝、イスラム建築の絶頂期。

皇帝の妃の墓、タージマハルをはじめとし、イスラム教徒となったインド人たちは彫刻的建築としての廟に熱を注いだ。広大な四分庭園の中央に基壇をつくり、その上に廟を建てる。墓室に必要な高さのドーム天井をかけ、その上に外観を偉大にするためのドームを載せ、二重にする。さらに、石の板庇とチャハトリ(小楼)で屋上を飾った。

タージ・マハルがイスラム建築の絶頂。

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ヒマラヤのイスラム建築

木造モスクが建てられた。繊細な木彫のモスクや廟を作ったが、ドーム屋根ではなく、鋭く尖った方形屋根。風土の気候に合わせたもので、イスラムのサインとしてのドームよりも、風土との対応を優先させた。

何度も焼失して再建を繰り返すうちに、内部は木造のままで外壁だけをレンガに置き換えた。

その他の宗教

ヒンドゥー教がインド各地の民間宗教を吸収したように、インドでは各地で土着の宗教が存在している。また、インドに民族が侵入する度に外来の宗教が持ち込まれた。それらの宗教は消えることなく共存している。少数派の宗教建築を紹介する。

巨石信仰

原初の宗教、巨石宗教の巨石記念物が各地に残されている。ストーンサークル(環状列石)、ヒンメル(立石)、ドルメン(支石墓)など。その中には寺院の原型ではないかと思わせるものもある。

キリスト

16世紀にポルトガルが西海岸のゴアを植民地にした際に持ち込まれた。植民地にルネサンスやバロック様式の教会が建てられた。

イギリスがインドを植民地化してからはインド各地で教会が建てられるようになった。

シク

頭にターバンを巻いた人たち。

アンチヒンドゥー教として16世紀に誕生。インドにあったいろいろな宗教を融合させた宗教。カースト制度の否定、一神論、バクティ(神への信愛)、スーフィズム(禁欲的修行)、偶像崇拝の禁止など。

寺院はグルドワーラーと呼ばれ、ムガル帝国の白亜の宮殿のような姿をしている。独自の建築スタイルを打ち立てる時間がなかったため、ムガル帝国の建築を模した。

偶像崇拝をしないため、神像彫刻がない。境内に池があり、池と建物との関係が浄土感覚を境内に与えている。

本山はアムリトサルにあるハリ・マンディル。通称黄金寺院。

その他

ここでは紹介しないが、他にもユダヤ、ゾロアスター、バハイなどがある。

あとがき

インドの宗教建築について分かっていただけたと思います。ここで紹介した建築以外にも非常に多くの建築が残っています。

ぜひ、インドに直接赴いて、建築の素晴らしさを肌で体験していただければ。

この記事がそのお手伝いになれば嬉しいです。

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